論文作成法その1−議論の延長としての論文

前置き

今、いろいろとアイデアをまとめる方法を考えているけれども、以前論文を作成したときに使っていた方法に縛られている気がする。
まとめる方法というのは、今までメモに関して書いてきたようなあれですね。いかに、メモの蓄積からまとまったものをつくるか、という。
そこで、以前やっていたことに整理をつけるためにも論文を作成するときに使っていた方法を書いてみます。というわけで大多数のひとには役に立たないけど学生で論文を書こうという人とか一部にはもしかして役に立つかもしれない。
はじめに言っておくと、僕は文系である過去の思想家が書いたものを解釈するというのを基本にしていました。そういうのも含めて読むといいです。

ここでやるのは、注をどうするかとか参考文献はどうするとか引用はどうするとか、そういった形式的なことがらではなく(多分そういうのは本屋にいけばたくさん売ってる)、その内容をどうやって作っていくかという話です。

長くなりそうなので、複数回に分けて載せますよろしくね☆ミ

論文を書く方法

論文というのを、ゼロの状態、ゼロじゃなくてもアイデアやメモがたまった状態からどういったようにして書くかという方法論を追求する分野がある。僕は、論文を書くことになった際、これが非常に重大だと思った。
というのは、一から論文を作ろうという場合に達成しなければならないことが非常に膨大に思えたからだ。まずその思想家が書いた書物の主なものはすべて目を通さないといけない。日本語に訳されたものだけでも膨大になる。そして、解釈しようという書物は原典で読んでいる必要がある。しかもそれが英語以外の言語で書かれている。ということはその言語についてもある程度まで習得していないといけないわけだ。あと、既存の解釈に目を通さないといけない。当然ながら、それはその思想家が書いたものの何倍も存在する。なおかつたちの悪いことに、現在主要で意義のあるとされている解釈が外国語のもので、かつ日本語訳もされていなかったりする。

普通のまじめな学生なら、基礎を勉強すると言ってこの膨大な作業を数年かけてこなし、適当なテーマを決めて自身の学習成果を示すことになるんだろうけれど僕はすぐにあきらめた。当然、積み上げなしに徒手空拳で論文が書けるわけはないが、それでも論文の書き方というのは存在し、それを使ったら上でいったよりもはるかに少ない作業量で済むだろう、と。担当教官は、伝統芸能だか武道の師範みたく、その書き方の秘訣を精神性だとか読書量だとかなんだと秘技ぶって調子にのってはいるけれども、そこには方法論が必ず存在するだろうと。

発想法関係の本

そんな理由で、論文を書く方法を追求し始めた。
これを追求した本というのは少なからずある。知的生産の方法、『知』のソフトウェア、『超』整理法、などですね。これらを読むことからまず始めた。
けれども、論文を具体的にどう書くか、という発想法の面ではあまり具体的でなかったりする。これらで追求されているのは、どちらかというと情報をどう吸収するかであり、どうやってメモを書くかであって直接発想法に焦点を当てていない。そして発想法は、ブラックボックスだとか言ってたりただの経験則を紹介し、「これが絶対に正しいというわけではない」といったり、こざね法、kj法といった実用に耐えれないものだったりする。『超』整理法が、それをまじめに扱っていていくつかの段階に区分したりはしているけれども、アバウトすぎてそれを直接利用するまでではなかった。

それでどうしたかというと、そこで扱っていない細部について、自分の経験や反省で埋めるということを行ったわけだ。これには非常に時間がかかった。というか、メモの方法とかに集中しすぎて発想法そのものを取り扱おうという、本来の問題意識に気づいていなかった。

というわけで、そのときに使っていた方法を紹介します。『超』整理法で野口が言っている、「とっかかり−揺り動かし−結晶化」三つの段階の間を埋めるもの、という位置づけで読んでくれるといいと思う。

とっかかり

一般的な論文作成過程

とりあえず、一般的に論文を作るときにどういう過程をたどるのかを見てみよう。
論文であるからには、ある程度まで何のために書くのかというのを決めておかないと書きようがない。そこで、まずざっと次のようなのを論文を書く意義として考えることになる。

  • 教師にほめられるため
  • 今まで学んできた成果を見せる
  • 独創的な論文を作る
  • これまでの解釈史を基礎にして、それをさらに発展させる

こういう発想のもと、いろいろな解釈を読んで問題点を取り出して見たりということがなされる。また、同時にできあがりとして何を目指すのかを考える。
できあがりとして、たいてい先輩なり誰かなりが書いた論文を手本にすると思うが、それは、たいていは解釈の引用をちりばめ、参考文献もびっしりとあり、ところどころ原典の語句を、文法的に分析していたり、過去の思想家と比較していたりする。
まあ、こういうみかけから、自分はそれらを基礎知識として取得しなければならないと考えてしまうわけだ。で、その基礎知識が得られれば自分はきっと論文を書けるようになるだろうと信じる。そして、論文を書こうとして自分が論文が書けない場合は、それが基礎知識の欠如によるのだと無批判に反省し、ひたすらこの知識を磨くことになる。

議論の延長線上

ざっとこんな感じになるだろうが、上で書いたように僕は早々にこの道をあきらめ、別の観点から論文を書く方法を見つけようとした。
まずやったのは、論文の意義を知ることである。普通に生活していて論文なんて書く機会はないが、論文という形態が残っている以上何らかの意義があるんだろうし、それを見極めれば書き方の参考にもなるのではないかと考えた。

論文の意義は、相手を説得させることにある。それは議論において相手を論破し、自己の意志を飲ませ自己の意志の通りに行動させる、ということの延長線上にある。
普通、誰かと議論をしていて(別に高尚でも低俗でも何でもいい。アニメについてでも今週のジャンプについてでも)相手を説得、論破するためにはどうしたらいいかというと、自分がある主張を信じている根拠を相手に投げかけたり、相手が主張の根拠として用いていることを、より詳細な情報によりつぶしたりする。
でも、これはある程度まで行くと人間の記憶力だとかの限界で、意味が分からない方向にいきやすい。論理的につながっていなくても、感情でなんとなくつなげてしまったりというのがよくおこりうるんですね。記憶にたよってやるだけだと、複雑な問題だとかには対処できなくなってしまう。証明されていないこと、両者で一致していないことを根拠として議論を進めてしまうなどしてしまう。そして、どこかで紛糾してしまうわけです。
で、普通議論をするときにどうするかというと、レジュメを用意する。あるいは議論の過程で議事録をとる。そこに書いてあることは記憶を助けるし、一度互いに一致したことをお互いに忘却して、何度も不毛に話し合うことも、一度合意したことを意図的に忘れたふりすることもない。具体的には、相手が感情に逃げたら、書いたものを示し、「だってさっきこういったじゃん」といえばいいのだ。
この議論のためのレジュメの延長線上に本があるのだと思う。議論というのは、それが特定の組織、環境下だったらだいたい同じことが議題になる。そこで重大なのは、その問題にけりがつくかどうかであり、以前に同じことを議論して結論に達した人がいるのなら、それを用いた方が早い。

論駁と論文

で、結局何が言いたいかというと、論文というのは自分と意見の異なる相手を説得させるためにあるのだ、ということです。そのために、論文というのはたいてい主張とその根拠がならんだ形になっている。
論文が本として出版されたりするのも、本来的にはそこに有用な情報があり、それをみんなに広げ、そのうちそれをさらに広く伝えるために市販される、という順序だと思う。

ということで次のことが導かれる。論文の目的というのは、相手に自分の意志を強要すること。そしてその方法は議論と同じである。相手が絶対に否定できない根拠を見つけ、相手が用いている根拠をいいわけが聞かない形で批判し、相手を黙らせること。相手が飲めない意見を、このような方法を用いて飲ませるというのが基本なわけです。

今まで論文が書けなかったのは、自分の勉強成果を見てもらうだとかの論文の本質と関係ない、甘っちょろいことを持ち込んでいたからだ。そうではなく、ここでやるのは相手の論駁であり、議論、喧嘩と本質的に同じなのである。「おまえは間違っていて自分は正しい」という思想なのだ。
解釈だとか参考文献だとかは、所詮その説得のための、論文を見せる眼前の相手を黙らせる道具でしかない。「俺は今までこれだけ読んだのだから、俺のほうが正しいだろう」だとかくらいの意味だけを持つだけなのだ。いってみれば本質的でなく、それがなくても論文というのは成り立ち得るのである。
解釈や参考文献をちりばめたような論文は、ここで言ったような姿勢をとらず、批判されないように批判されないように、重箱の隅のどうでもいいことをつつき、そのうえで「僕はこんなにもいろんなことを勉強してきたんだよえらいでしょエッヘンo(^-^)o」くらいのものでしかない。そういう意味で脆弱で、そういうしょうもないものがたくさんあるからといってお手本にしてはいけないのだ。