手帳とパソコンの連動に至るまでその1

精神の唯物性

経験則として、私は一つのことを確信している。世の中には、天才は存在しない、ということだ。人間は、人間である以上精神構造に差があるわけがない。所詮、人間の行動はある情報を得て分析をし、それを元に反応をする、という物理的なものにすぎず、その点において人間同士のあいだに大差はないはずだ。だが、同じ情報を得ることができても、そこには反応の差が生じる。同じことを経験しても、それをすぐに忘れて同じ過ちを犯すものもいれば、それによって自らの行動を反省し、次に同じことが起こっても対応できるように決意し、実行するものもいる。様々な状況においての適切な対応の蓄積、すなわち学習能力によってのみ人間における相違が生じるはずだ、そしてそれ以外に人間を分けるものなどない、という確信である。
生まれ持った精神構造に違いがない以上、そこに差が生じるのは単にやり方の問題だということになる。能力ではなく、ノウハウによって差が生じる。だとすれば、意識的にその原理だけを取り出し、鍛え上げることも可能ではないか、というように考えた。
人々は、日々無意識にこの学習を行っている。それは、たとえばスーパーでどうすれば効率よく買い物ができるかでも、どうすればゲームをうまくクリアできるかでも、どうすれば目的地まで赤信号で止まらずにいけるかなんてことでも、なんでもいい。人々が経験し、学習し、理論を作り、その理論に従って行為すること、すなわち学習を意識的に行う。そうすれば、私は天才(一見そう見える人)になることができるのではないかと考えたのである。これによって、漫然と経験しているだけでは数年かかることを短期間で学習し、さらにそれを用いて、自分の視野や行動を拡大できるようになるのではないかと思ったのである。

方法論としての手帳

人間の精神には本質的違いはなく、相違は学習能力によってのみ生じる。そして、私の目的は、学習能力を高め、天才になることである。ここにおいて、次のことが対象化されることになる。「ひとはなぜ、皆天才になることができないのか。それを妨げるものは何なのか。」
それは、ひとえに人間は、一度起こったことを忘却するためであると考えた。人は容易に、一度起こったことを忘れ、何度も同じ発見をし、忘却によって本当はつながっている問題を、つながっているものとして認識することができない。そして、理論にまで昇華することができず、自分自身の判断を作り出す代わりに、偶然に身を任せて生きているのである。偶然に身を任せることで、時たま勝つことはできるだろう。だが、勝ち続けることはできないし、その過程で成長をすることもできない。
意識的にしろ、無意識的にしろ、この忘却を克服し、経験したことを用いて自分を変化、適応させ続けた人間が、天才と呼ばれるのではないか。

だとすれば、次にするべきことは明白である。この、忘却を何らかの手法を使って乗り越えればいいわけだ。日々無数に生じる思いつき、経験をそのままにしておかず、それらをすべて自分を精神的に成長させる糧にできればいいのである。それを、手帳あるいはパソコンという手段を用いて克服しよう、というのが基本的な理念である。

整理法

以前には、このことを、一度した失敗を二度としない、と決意することで実装していた。そうすれば、自分は二度と同じ失敗をしないように自分を変え続けるわけだから、成長し続けることができるわけだ。
この方法は有効ではあったが、日々扱う情報が増えすぎるなどして、やめてしまう。そして、整理法や、知的生産の方法、と呼ばれるものに向かうことになる。
さて、ここにおいて前置きは終わり、手帳とパソコンとをどのように連結させるかという本題に入れるわけだ。それについては次回。

これと同じものとして、「いかに精神的に折れずに動き続けるか」「いかに、デッドロックにおいて立ち直り、新たに行動を続けられるか」などの研究がある。いくら、学習能力に習熟したところでそれを用い続けることができなければ無意味であるし、自分の無知を克服し、新たにチャレンジし続けることを妨げるものの存在が、人々が偶然に頼る理由だともいえる。学習を続ける以上、死なない限り、何年かかろうと、いくら学習の方法に習熟していなくても、いつかは誰もが天才の領域に至ることができるはずだ。しかし、現実においてはそうではなく、精神的に向上心を全く持たず漠然と生きているひとが多いのは、むしろこれが原因であると思われる。
だが、これの研究はまた別の領域であり、ここでは触れない。機会があれば何か述べるかもしれないけどね。